第1章  プノンペン陥落

 

階段を降りながら、その日はどうも嫌な予感がしていた。私の心は恐怖で潰れそうだったが、用事があったので仕方がなかった。車の横に立ち、ドアを開けながら神に祈った。「どうか車の屋根が降ってくるロケット弾から私を守ってくれますように」

その直後、愛車のオペル・レコルト(英語読みはレコード)の中で渋滞にはまっていた私の周りで、爆発音がした。1975年4月14日、共産主義勢力がカンボジアの首都プノンペンに包囲の網を張り、無慈悲にもその範囲を絞っていた。腐敗した指導者ロン・ノルの下、ロン・ノル軍は徐々に首都中心部に入っていった。壊滅的状況にあった地方から逃れてきた3百万にも及ぶカンボジア国民が市内で肩を寄せ合い、惨状から抜け出せることを祈った。

愚かだと思われるだろうが、私はそのときプノンペン市内の避難所に逃げる群衆の流れに逆らって車を運転していた。市内を抜けてトゥール・コーク郊外の爆撃被害の大きかった地域に向かうのは、恐らく私だけであった。前日、私は家族を乗せ、今とは逆の方向を市内に向かって安全に車を走らせていた。勉強に人生を捧げていた弟の一人、ラタナを除いて。郊外の比較的広い実家を離れて、すし詰め状態の市内の避難所にいくのを嫌った弟は、一人郊外に残っていたのだ。母は息子を心配するあまり一晩中泣き通しで、私に車で戻って弟を連れ戻すようにと泣いて訴えてきた。家族の中で運転ができるのが私しかいなかったので、仕方がなかった。あまり賢い選択とは思えなかったが、恐怖心を振り切って私は車で向かった。

ロケット弾が雨のように降り注ぐなか、私は神に祈り続けた。恐怖心に負けて何度も引き返しそうになったが、母の心境を思い出し、突き進んだ。道すがら、ロケット弾の爆撃を受けた死傷者をたくさん見かけた。子供たちの手を引いて逃げまどう親たちが着ているシャツは、血で真っ赤に染まっていた。負傷者を運ぶ三輪タクシーの床は血の海で、搬送先の病院はどこも定員を超えていた。人々はパニックに陥り、至る所、大混乱であった。

かつてのプノンペンは、並木道と親切な人々が魅力的な、約50万の人口を有する美しい街であった。それが今や、建物は崩壊し、砲撃の残骸が道に溢れ、人口も地方から逃れてきた難民で3百万にまで膨らんでいた。

やっとのことでトゥール・コークに着いたが、そこに生命の息吹は残っていなかった。ロケット弾の犠牲にならなかった人々も恐怖におののき、食糧を持って防空壕に逃げ込んでいた。焼けた無数の家々からは煙が立ち昇り、まさに廃墟の町と化していた。市内を逃げ惑う人の群れをかき分けるようにして入ったトゥール・コークだったが、実家に続く道にさえぎるものは何もない。私は車の速度を落とし、変わり果てた車窓の景色を眺めた。固く施錠された家の門の前まで来ると、車を止めた。

「ラタナ!ラタナ!」

私は声の限りに叫んだ。次第に大きくなる爆撃音に、私の声はかき消されそうだった。「いた!」防空壕から顔を出す弟の姿を見つけた。彼は本当に私かどうか確かめようと、門の方へ駆け寄ってきた。

「さあ早く、今すぐ市内に戻るのよ」息も切れ切れに言った。

「嫌だ、あんなに人が押し込まれている所で勉強なんかできやしない。ここに残る」

愕然とした。自分の耳を疑ったと同時に怒りが込み上げ、言い返した。

「あなたを連れ戻すために私は命の危険を冒して戻ってきたのよ。一緒に戻りましょう。お母さんも心配しているわ」

すぐそばではロケット弾がさく裂しているのに、門の前に立ち口論をしていた私たちは、傍から見たら正気でないと思われたに違いない。何とか弟の説得に成功して安堵した私は、一刻の猶予もならない恐怖の状況のなか、市内にある家の硬い床のことを気にしていた。車の中には、前回市内を訪れたとき軽い気持ちで積み込んだ衣服と貴重品がそのままの状態になっていた。そんなに長い間家を空けることになるとは想像もしていなかったし、そもそも、留守の間に爆撃や盗難に遭わないように準備したまでのことだった。私は急いで家の中に入り、小さなマットレスを外に引きずり出すと、ラタナと協力して車の屋根に固定した。弟は本が山のように入ったバッグのみを持ち出した。「服は今着ているので十分だけど、本がなければ生きていけないから」

車のギアを入れ、タイヤをきしらせながら私たちは家を後にした。トゥール・コークを抜けるころ、1台のランド・ローバーが擦れ違った。乗っていたのは父の親友コン・チャット大将の娘、コン・ススディだった。私の友人でもある彼女は窓を開けると大声で聞いてきた。

「マットレスなんか積んで何やってるの?」

壊滅的な烈火の中からわざわざマットレスを運び出すなんて、と思ったのだろうが、彼女は笑いながら手を振って走り去った。これ以降、彼女を見掛けることはなかった。

プノンペン市内に続く渋滞を抜け、1階部分にヘアーが経営するタイヤ商店が入る4階建ての建物に到着した。私の妹ソクホンの婚約者、レイの兄であるヘアーとその家族が、親切にも私たち家族を数日間住まわせてくれるのだ。

3階部分は、建物の全長13メートルを活かしたひと続きの部屋があり、レイの家族を含む16人もの人が窮屈そうに暮らしていた。そもそも、私の家族は全員揃っていたわけではなかった。母はいたが、カンボジア軍の大佐であった父は、約1カ月前に大隊の指揮官として西プノンペンに派遣されていた。父との連絡は、運転手によって伝えられる伝言が頼りだった。父の他にまださらに二人が欠けていた。

私がいつも温もりと支えを求めていた私の夫、ラック・ヴィラック・フォンは1万キロ以上離れた場所にいた。1974年8月、彼は奨学金を受け、国際教育計画研究所(IIEP)で学ぶため、プノンペンを離れ、パリに向かった。当時はまだ内乱も首都から遠く小規模なものだったので、こんなに早く家族が巻き込まれるとは考えもせず、夫は飛び立っていった。クメール・ルージュの攻撃を受けて政府軍が崩壊するのはずっと先であろう、誰もがそう思っていた。

もう一人、弟のアンも父と同じく軍で第二補佐官に就き、前線で戦っていた。

それぞれ6歳と、1歳半になる二人の娘、ソマリーとパニータは、プノンペンの私の元にいた。トゥール・コークから戻ると、パニータの乳母アーヘンが娘二人と遊び、私のもう一人の弟ポーヴと、3人の妹ソクホン、ダァ、スレィヴィが私を出迎えた。ソクホンは就職していたが、それ以外は皆本来就学しているはずの年齢だ。だが、同じ民族が放ったロケット弾から逃れ、隠れ住んでいるのが現状であった。

その日は何事もなく平穏に過ぎていった。一夜明けると、ラタナが急にトゥール・コークの家に戻ると言いだした。一晩様子を見て、遠方の爆発音がだんだん小さくなっていると判断したのだろう。危険な状況を脱した今、広い静かな家に戻って勉強に集中したいのだという。家族は皆信じられないという表情を浮かべた。弟の決意は固く、母は考え直すようにすがりついたが、無駄だった。大事な本が入ったバッグを抱え、家族から離れて歩いていくラタナを窓から見送った。母はただ無言で立ち尽くしていた。この直後にプノンペンがクメール・ルージュの手中に落ちるとは露知らず、ラタナは私たち家族の元を去っていったのだ。

政府軍は、以前からクメール・ルージュ撃退を試みてはいたが、結果は全戦全敗であった。「また失敗するに違いない。でも爆撃も比較的落ち着いてきているようだし、家に帰れる日もそう遠くないかもしれない」そんなことを語り合いながら静かに一日を過ごした。

その夜も爆撃は続き、翌朝突然帰宅した弟アンの知らせに、前日の淡い期待は打ち砕かれることとなった。この日の早朝、プノンペンから西へ60キロ以上離れたコンポンスプー州が、クメール・ルージュに制圧されたのを受け、弟は急きょ戻ってきたのだ。どんどん攻め入ってくる敵を前に、弟をはじめ多くの軍人が制服を脱ぎ捨て民間人になりすまし、命からがら逃げた。家に入るときも、何度も周りを警戒し、状況を確認していたようだ。弟の情報によると、クメール・ルージュ軍はすごい勢いで進軍し、対する政府軍は崩壊寸前で、首都中心部が陥落するは時間の問題だということだった。

私たちは、暑く息苦しいひと続きの部屋に身を潜めた。アンは外の様子を見に出ることがあったが、弟以外は一歩も動こうとしなかった。その日の夜はゆっくりと更け、朝を迎えた。忘れもしない1975年4月17日、4年に及ぶクメール・ルージュの恐ろしい統治時代の幕開けである。カンボジアが巨大な強制収容所と化す契機となったこの日は、以後民衆の記憶にくっきりと刻まれることになる。

私たちは電話の音に飛び上がった。マシンガンの音が日に日に近づいてきていたこともあり、家の中はただでさえピリピリしていた。母が受話器を取ると、驚いたことに、それは父からの電話であった。父は生きていたのだ。興奮した私たちは電話の周りに集まり、恋しい思いをぶつけた。「家に戻って来てほしい。それが無理でもせめて政権を掌握したクメール・ルージュから身を隠し、安全な場所に逃げてほしい」母の切実な願いだった。軍を離れられないと聞かされた母は、大佐の身分を隠すように説得したが、父は逃げも隠れもするつもりはないと断固として断ったようだ。「内乱で壊滅的になったこの国を立て直すのに、自分はクメール・ルージュに必要とされている。それに、彼らには誠実さを買われているから大丈夫だ」そういって父は私たちを安心させようとした。母が涙ながらに受話器を置くと、私は何ともいえない無力感に襲われた。優しく大好きな父の不在で、当時26歳だった長女の私の肩には責任が重くのしかかっていた。いつも家族を力強く引っ張ってくれる父に、今すぐ戻ってきてほしかった。しかし、この電話が父との最後の連絡となり、以後二度と会うことはかなわなかった。

正午ごろ、戦車や大型車両の走る音に混じって、歓喜の声が聞こえた。私たちの家がある高みからその方を覗くと、クメール・ルージュ兵士の団体が通りを進み、プノンペン市民が熱狂的ともいえる歓迎をしているのが見えた。その熱気に先導され、私たちも窓から白旗を振り、全身黒ずくめの共産主義軍に歓声を送った。この自然発生的に湧きあがった歓喜の声と光景を目にした人の中には、いかなる形であれ凄惨な状況が落ち着くのであれば、クメール・ルージュの勝利でも構わないと思う人さえいた。政策の違いからクメール人同士が長きにわたって残忍な争いを続けた結果、カンボジアの美しい田園風景は徹底的に破壊された。アメリカのB-52爆撃機は、のどかな田園地方の水田に無残にも爆弾を投下し、農民を恐怖に追いやった。共産主義勢力が新たに政権を握れば、争いも終わり、平和に生活することができるのだろうか。私たちは自問していた。大通りをゆく共産主義軍人の硬く無表情な顔は、これから起こる不吉な出来事を物語っているようだった。

程なく午後1時ごろ、戦争を礼讃する軍歌が繰り返し流れるラジオから突如アナウンスが聞こえてきた。「クメール・ルージュと交渉中である」と発表する政府幹部の一人、メイ・シチャン将官の声だった。するとそこに、「クメール・ルージュの勝利以外は認めない。交渉には応じない」と怒りに満ちた声が割って入ってきた。長い沈黙があり、「すべての政府役人は情報省に連絡するように」とのクメール・ルージュ指導者からの通告があった。彼はクメール・ルージュの勝利宣言に続いて、旧体制幹部に国を立て直す協力を仰いだ。最後に、革命的勝利をもたらしたカンプチア民族解放戦線(NLF)を称賛してアナウンスは終了した。

私たちはラジオの前に茫然と座り込み、先ほどの歓喜に満ちた期待はもろくも崩れ去っていた。午後になって外出先から戻ったアンから、クメール・ルージュが薬局や食料品店を荒らし回っていると知らされた。大量の薬や食糧がトラックに積み込まれ、町の外に運び出されていたそうだ。戦いは終わったどころか、さらに悪い方向に向かっている。私たちは明かりを失った。

午後はなかなか時間が過ぎなかった。おしゃべりやカードゲームもしたが、それ以外はただただ座って時計の針が進むのを待った。「爆撃もほぼ終息したことだし、もう一晩したらトゥール・コークの家に戻ろう」そう決めた。

その晩私たちは寄り添って床に就いたが、激動の一日に精神的に参ったのと、先が見えない不安とでなかなか寝付けなかった。私は二人の娘ソマリーとパニータの隣に横になりながら、罪悪感にさいなまれていた。子供たちを連れてカンボジアを離れパリに来るようにと、夫から再三にわたって手紙でいわれていたのだ。そんなお金の余裕もないし、何よりプノンペンが共産主義勢力に屈するはずがないと信じていた私は、パリ行きを先延ばしにしていたのだが、もう手遅れだった。クメール・ルージュのロケット弾を受けたポチェントン国際空港(現プノンペン国際空港)の滑走路が、使用不可能になったのだ。母や弟妹に囲まれてはいたが、心の中は寂しさでいっぱいだった。時折遠くで銃声が鳴り響き、絶望という暗闇にいた私は神に祈った。当時、神と祈り方について勉強不足なことも多かったが、神に愛されていることは感じていた。もっと早く神と出逢っていればよかったが、その後の人生においても、神に祈ると心の平穏を保つことができた。神は私たち全員の祈りを受け入れる偉大さを持っていると信じていた。

4月18日、7時に起床して窓の外を見ると、人々が通りを行き交っていた。トゥール・コークの実家に戻る荷物の支度をしていると、アンが帰ってきて、もうその頃は恒例になっていた報告会があった。

「クメール・ルージュの命令でみんな町を離れている。町は大混乱だ」息を切らして話す弟を見て、家族中がパニックになった。

「まだ残っているかもしれないアメリカかいらいのロン・ノル一味が根絶するまで、町から市民を退去させるのが狙いだ。3時間で戻れると聞かされた人もいれば、三日間という人もいるらしい」

まだ報告することは山ほどありそうだったが、アンは考え込んだ様子で口を閉じた。私は次に起こることを想像した。都会人である私たちがどうやって田舎で生きていけるのだろうか。プノンペンの外で待ち受ける生活には不安がいっぱいだった。

「私たちはどうすればいいの?通りは人で溢れていて、離れ離れになるのが落ちよ」私はアンに提案した。

「食糧もあることだし、今はここにとどまるのが安全だ。少し待って様子を見よう」

弟妹の意見に、母も頷いていた。誰も外に出たくなかったこともあり、アンの意見を取り入れ、階下の商店で推移を見守ることにした。

少しすると通りにトラックが現れ、町から退去するよう拡声器を通して命令があった。逆らえば発砲も辞さない構えのようだ。家にとどまるのは怖かったが、出ていくのはもっと怖かった。静かにカーテンを引いて物音を立てないようにして待った。ここには数日分の食べ物はあったし、水道もまだ機能していた。

夕方になり、クメール・ルージュが下の通りの商店から商品を略奪している様子が見えた。多くの住民はドアをしっかりボルトで施錠し、既に逃げ出していた。若い共産主義兵士たちはドアが破れないとわかると、一歩下がり、B40ロケットを撃ち放って店の商品もろとも粉砕した。私たちの隠れ家の向かいは、缶詰や保存食を扱う商店で、頑丈なドアが付いていたので、クメール・ルージュのB40ロケット弾も金属部分を曲げただけだった。だが、それでもひるまない彼らは、GMC社製のトラックとドアの蝶つがいを長い鎖で繋げてドアをもぎ取った。幸いにも私たちが隠れる階下のタイヤ商店は、彼らの興味の外だったようで難を逃れた。

ひっそりと息を殺した状態で、4日間は身を隠すことができた。毎日カーテンの隙間から町を後にする人の長蛇の列を目にしたが、その数は日に日に少なくなっていった。21日の朝、近所の通りには、A47自動小銃とB40ロケット発射装置で武装したクメール・ルージュの集団以外誰もいなくなった。彼らは残っている人がいないか一軒一軒見て回り、ついには私たちの階下のタイヤ商店にもやってきた。施錠されたドアを乱暴に叩く音が響いた。

「おい、誰かいるか。いるなら今すぐ出てこないとひどい目に遭うぞ」

私はパニータが声を出さないかと必死で、心臓が飛び出しそうだった。さらに数回ドアを叩く音がしたと思うと、今度は小声で話す声が聞こえた。中に誰もいないと判断した彼らは通りを進んでいった。私たちは安堵のため息をつき、呼吸を再開した。

2時間ほどすると、今度は屋根の方から物音がした。クメール・ルージュ兵士が隣家の屋根を伝って、4階のドアから侵入してきたのだ。銃弾で撃たれる恐怖でうずくまりながら、私は咄嗟にパニータとソマリーを引き寄せた。5人の若いクメール・ルージュは、ドアを開けた瞬間ライフルの銃口を私たちに向けた。私の顔からは血の気が引き、恐怖で冷たくなった。無言で私たちを見つめる兵士たちの一人が、年配の女性(私の母とレイの母)を見つけほほ笑んだ。一瞬にしてその場の雰囲気が和んだ。彼は年配者を敬い、母たちに体を向けた(後で知ったのだが、クメール・ルージュは年配者を「お父さん」「お母さん」と呼び、それ以外は「友」を意味するミットと呼ぶ)。

「お母さん方、あなた方を傷つけはしません。3日間だけ町から出てください。子供たちのために食糧を持っても構いませんが、とにかく今すぐに出てください。私たちはあなた方を気遣っているからここにいるのです。郊外で住むのは大変でしょうが、新体制が整えば、より幸せな暮らしが待っています。私たちがこの4年間人民の命を軽んじて戦ってきたのは、アメリカ帝国主義の支援を受けた堕落したロン・ノル政権からこの国を救済するためだったのです」

ほほ笑みながら話す兵士を見て、すべては良い方向に向かうのだと思った。皆一斉に口を開き、「どこに住むのか」「どうやって移動するのか」「何を食べるのか」と矢継ぎ早に質問すると、クメール・ルージュは態度を一変させた。

「話を聞かないでおいて、我々を極悪非道呼ばわりするな。出発まで1時間やるからそんなことは自分たちで決めろ。ただし自分の行動には責任を持つように」

恐怖に震える私たちは、直ちに出ていくことに同意した。ライフルの銃口を向けられた場面が脳裏に焼き付いた今、彼らに従うしかなかった。

私たちは急いで支度をした。郊外では何が手に入るかわからないので、食糧が最優先であった。衣服の替えはなくても生きられるが、食べなければ飢え死にしてしまう。私は約4リットルの鍋に米を入れ、娘2人を連れて階段を駆け降りた。調理方法を考える余裕はなかったので、調理鍋もマッチも忘れていたが、幸いにも他の誰かが持って出たようだ。外に止めてあった私の車は無事だった。レイの兄ヘアーが新車のジープを持っていたが、途中でクメール・ルージュに没収されたら困るからと商店に置いていった。すべての食糧を私の車にぎゅうぎゅうに積み込むと、私はハンドルを握った。序列意識から最年長の母が助手席に座り、幼いパニータ以外はみんなで車を押して歩いた。

以前アンが町を偵察しているとき、クメール・ルージュが車を没収する現場を何度も目撃したそうだ。若い兵士の中には、長年ジャングルで戦っていたため始めは車に無関心だったが、次第に興味を持ち、今では玩具を与えられた子供のように興奮して、辺り構わず車を走らせる者もいた。車のエンジンをかけないで押して歩いたのは、緊急事態に備えて貴重なガソリンを取っておくためだった。ガソリンを給油できる環境とは程遠い現状がそこにはあった。

車には、降ろさなかった衣料や貴重品がそのまま積んであったので、今回食糧を積むと、明らかに重量オーバーだった。そこでヘアーのジープを取りに戻り、荷物を二つに分けることにした結果、2台の車を押して歩くことになった。

家族全員で協力して車を押し、私たちは未知の世界に突入していった。